警察学校を卒業したら父親が入院している病院を管轄する交番に配置されました【元刑事のコラム】

 1992年10月に警視庁警察学校を卒業し、赤坂警察署赤坂二丁目交番に配置されました。当時、私の父は喉頭がんで虎の門病院に入退院を繰り返しておりました。虎の門病院は、その赤坂二丁目交番の管轄内にありました。
 これがどれくらいの確率かを計算してみます。当時警視庁には警察署が99署ありました。そのうち島部警察署の5署には警察学校卒業生の配置はないので残りは94署となります。一つの警察署にある交番の平均数はざっくり8つくらいなので94×8=752となります。よって752分の1という確率だったことになります。
 警視庁が配慮して配置したという可能性は全くありません。父が虎の門病院にかかっていることは警察関係の誰にも話していなかったからです。
 父は声帯を除去し、声による会話ができなくなりました。転移が見つかりましたが、当時の医療技術ではそれ以上対処が出来ませんでした。父は徐々に痩せ細り、虎の門病院に入院する期間が長くなりました。激しい痛みを抑えるために、モルヒネの処方が始まり、父はほとんど寝たきりの状態になりました。交番勤務が終わり、見舞いに行っても、寝てるだけで意思の疎通はほとんどできない状態でした。
 ある日の午後7時頃、赤坂二丁目交番で勤務中に交番の電話が鳴りました。取ると本署からで「淺利くんかね、お姉さんから外線入ってるからつなぐよ」と言われました。つないでもらうと私の姉でした。「今お父さん奇跡的に意識戻ってるよ!来れない?今なら話できるよ!」と言われました。交番から自転車で行けば、5分もあれば行ける場所に虎の門病院はありました。ですが、警察学校を出たばかりの私には、上司や先輩巡査に事情を話して病院に行く許可を求めることができませんでした。当時の警察組織には、そういうことを若い警察官が上に言える空気が無かったのです。
 私は姉に「勤務中だから行けません」と言って電話を切りました。今思うと、なぜあのとき勇気を出して上司に相談しなかったのか、なぜ752分の1という神様がくれたとしか思えない機会を活かさなかったのか悔やまれます。父はその1か月後に意識が戻らないまま亡くなりました。


淺利 大輔

あさり だいすけ

行政書士淺利法務事務所 代表

私は、警視庁警察官として32年間勤務し、そのうち25年間刑事(捜査員)をやってきました。さらにその中でも知能犯捜査関係部署(主として告訴・告発事件を捜査する部署です)の経験が一番長く、数々の告訴・告発事件に携わってきました。刑事部捜査第二課員当時は警視庁本庁舎(霞が関)1階にある聴訴室で、電話帳のように分厚い告訴状や告発状を持参して来られる弁護士先生方を毎日のように相手にし、ここで大いに鍛えられました。
これまでの経験を活かし、告訴事件の相談を受け告訴状をリーズナブルな料金で作成することで、犯罪被害者の方たちを支援できるのではと考えたからです。
「淺利に頼んで良かった」依頼人の方からそう思っていただける行政書士を目指していきます。

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