警視庁機動隊の思い出

 警視庁には10隊の機動隊があると言われます。第一機動隊から第九機動隊、それに特科車両隊で10隊です。ただし、正式には特科車両隊は機動隊ではないので、これらの10隊を正確に記載する際には「機動隊等」と表記されます。やってることはほぼ同じなんですがね。
 私は、第三機動隊に7か月在隊しました。しかし、途中で巡査部長の昇任試験に受かって最後の2か月は関東管区警察学校に入校していたので、実質5か月しかいなかったことになります。機動隊は、年に2回新隊員と言われる若い巡査または巡査長が入隊してきます。巡査隊員はこの入隊時期によって、下から新隊員、半年、1年、1年半・・・と階級のように厳密に地位が決まっています。2年を過ぎた頃からは「組長」と呼ばれるようになり、組長の筆頭ともなると、中隊内では分隊長(巡査部長)はもちろんのこと、小隊長(警部補)よりも影響力は大きく、入ってきたばかりの小隊長は敬語を使うほどでした。ですので、私が在籍した5か月というのは、一番下である奴隷のような存在の新隊員の思い出しかありません。
 当時(1995年頃)警視庁機動隊の仕事は、常駐警備がほとんどでした。常駐警備とは、都内あちこちにある重要防護施設(皇居、国会、総理官邸、外国大使館等)の周辺に立って、テロやゲリラ、不審者などに備えて配置に付くことでした、基本的に立っているだけであり、私たちは陰で「警備員の仕事」と呼んでいました。たまには、デモ隊の警備に付いたり、オウム真理教の上九一色村の施設に警備に付くことはありましたが、それほど多くはありませんでした。
 ですので、夏暑く、冬寒い以外は仕事自体はきつくなかったのですが、新隊員として先輩たちから受ける理不尽なしごきが耐えがたく、同期の優秀だった数人が相次いで辞めていったのもこの時期でした。まず、新隊員の出勤は早く、機動隊の中の寮に住んでいる独身の新隊員は午前5時30分には出勤していました。私は、既に結婚して子どももいたため、家族住宅からの出勤であり、始発に乗っても6時が精一杯でした。朝、出勤すると急いで制服に着替え、リヤカーを押して倉庫に走ります。歩いていると怒られますから常に駆け足です。倉庫に行って、警備資材やら、夜間バス内で寝るための布団などを積み込み、大型バスに積み込みます。少し遅れて半年の先輩が出勤してきて手伝ってくれますが、手伝ってくれるのはそこまでで、1年より上の先輩は絶対に手伝ってくれません。手伝ってくれるどころか「遅い」とが「積み込み方が悪い」とか文句を言うだけです。
 積み込みが終わってバスが発車すると、少し落ち着けます。バス内の乗車位置は厳密に決まっていて新隊員は一番前で、後ろに行くほど偉くなり、最後席のベンチシートには組長連中が陣取ってトランプなんかをやっています。現場に到着すると、前日から配置に付いてる他の機動隊員と交代します。ここでも歩くと怒られるので走っていきます。交代が遅れると「第○機動隊はいつもおせーな」なんて嫌みを言われます。
 配置は2交代です。立つポイントは決まっていて、そこを2人で交代しながら担当します。立っていないほうはバス内で待機なので、1年以上の先輩はトランプをやったり、本を読んだり好きにできますが、新隊員は無線機のそばでじっと動かず待機していなければなりません。もし、無線機で呼び出し等があれば走って応援に向かいます。
 夜間になると、バス内で仮眠を取るため、寝場所を作ります。これも新隊員の仕事です。座席はビニール製で現在の路線バスの椅子よりももっと貧相なものなので、そこで寝ることはできません。なので、「寝板」と言うベニヤ板を座席の上に乗せて即席のベッドを作ってその上に布団を敷きます。寝心地は悪いですが、椅子に座ったままよりはだいぶましでした。
 翌朝、交代が来るとバスに乗って隊に戻ります。途中で新隊員は、一人ずつ強制的に「歌」を歌わされます。君が代とか警視庁の歌とかつまらない歌を歌うと組長の機嫌が悪くなるので、はやりのアイドルの歌なんかを歌わないとなりません。これがなかな屈辱的なのですが、適当に歌うと後で連帯責任として何らかの罰を受けるのでぐっとこらえてバカになったつもりで一生懸命歌いました。
 隊に戻ると、前日の逆で、資材や布団をリヤカーに積んで倉庫へ走ります。中隊長の指揮で解散となった後、恐怖の新隊員集合があります。第三機動隊の集合場所は隊舎裏の洗濯機がある場所でした。そこには、新隊員の他に、半年と1年の先輩がやってきて、前日からの反省検討会が開かれます。交代が遅かったとか、布団の敷き方が悪かったとか、○○が歩いていたとかどうでもいいことで怒られます。何か失敗があれば怒鳴られます。私はありませんでしたが、暴力を受けた新隊員もいました。1年の先輩も組長クラスから「新隊員がたるんでるからしめろ」と言われてやっているのはわかっていましたが、意地の悪い1年の中には、それを通り越して喜んでやっているような人もいました。
 更衣室に鍵付きのロッカーがあり、そこで私服から制服に着替えます。機動隊員にはたくさんの装備があります。無くすと大変なことになりますので、新隊員は全員装備の紛失には気をつけ、ロッカーの扉に鍵をかけていました。ある日の反省検討会で、1年から「お前ら新隊員のくせに生意気にロッカーに鍵なんかかけてんじゃねえぞ。」と言われました。これは、組長クラスが装備品を無くした場合、新隊員のロッカーから同じものを頂戴する(当時員数をつけると言いました。)んだから鍵をかけるなという意味でした。そしてカギをかけなくしてすぐに私のロッカーから帽子が一つ無くなりました。
 そんな状態でしたから、新隊員同士で酒を飲むときはとことん飲みました。幸い、私の在隊中には飲酒による事故はなかったのですが、私が昇任して隊を出た直後、私のいた中隊の後輩である新隊員が、勤務の後飲み過ぎて駅のホームから転落し、助けようとした新隊員2名とともに全員亡くなるという事故が起きてしまいました。彼らが深酒した理由がわかるので、今思い出してもかわいそうでしかたがありません。


淺利 大輔

あさり だいすけ

行政書士淺利法務事務所 代表

私は、警視庁警察官として32年間勤務し、そのうち25年間刑事(捜査員)をやってきました。さらにその中でも知能犯捜査関係部署(主として告訴・告発事件を捜査する部署です)の経験が一番長く、数々の告訴・告発事件に携わってきました。刑事部捜査第二課員当時は警視庁本庁舎(霞が関)1階にある聴訴室で、電話帳のように分厚い告訴状や告発状を持参して来られる弁護士先生方を毎日のように相手にし、ここで大いに鍛えられました。
これまでの経験を活かし、告訴事件の相談を受け告訴状をリーズナブルな料金で作成することで、犯罪被害者の方たちを支援できるのではと考えたからです。
「淺利に頼んで良かった」依頼人の方からそう思っていただける行政書士を目指していきます。

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