刑事時代に苦労させられたある若夫婦について

 某警察署で知能犯捜査係長をやっていた当時、宿直勤務に就くと、毎回のように深夜にDVや夫婦喧嘩で110番が入る若い夫婦がいました。子どもはおらず、夫は元ホスト、妻は無職の生活保護受給世帯でした。110番は夫婦のケンカの声で他の住民が入れることもあれば、本人たちが入れることもありました。大きなケガをするようなことはありませんでしたが、毎回ベロベロに泥酔しているので、何を言ってるかよくわからず、とにかく現場でわめきちらすので処理にやたらと時間がかかりました。当時は警視庁にDV事案に対処する「人身安全事案対策室」が設置された頃で、DVや女性が絡む通報には警視庁全体がピリピリして神経質になっていた頃でした。男が女性に「殺す」と一言言っただけで、「逮捕しろ」という風潮でした。なので、110番が入る度に「またあの夫婦かと」気が滅入りました。
 そんなある日、妻が110番を入れてきました。内容は「夫を切ってしまった」とのこと。急いで部屋に行くと、夫は腕を眉そりで4、5センチ程度切られ、出血していました。ただし眉そりなのでキズはそれほど深くはありませんでした。夫に被害届を出すか聞いたところ、出さないということでしたので、通報しているのは妻のほうだし、キズも浅いので、事件化は見送ることにして、ケガの関係は救急隊に任せて引き上げました。署に戻ると、宿直責任者だった警備課の課長代理から「係長、刃物で切ってるから逮捕すべきじゃないですか」と言われました。私はこの夫婦には何度も通報されて頭に来ていたこともあり、「通報したのはやった妻のほうで、ダンナには被害届出す意思もありませんし、刃物とはいっても小さな眉そりですからね。やりませんよ。」と断りました。
 すぐに刑事課長から電話がかかってきました。宿直責任者にチクられたのです。「係長! なんでやらないんだ! さっさと令状請求して逮捕しろ!」と一喝されました。刑事課長に言われてはやるしかありません。すぐに逮捕状の令状請求準備を始め、3時間くらいで書類をまとめ上げ、パトカーに乗って緊急走行で裁判所に向かいました。裁判所に着いたのは午前5時くらいだったと思います。事務官は起きていましたが、裁判官は仮眠中だったらしく、奥から浴衣を着たまま出てきました。まだ若い、30代半ばくらいの裁判官でした。1時間もしない頃に呼び出されました。ずいぶん発付が早いなと思って受付に行くと、裁判官直々に待っていて「君ね、これ見てよ、これ。」と言って請求書の被疑者名を指差しました。なんと、被疑者のファーストネームが変換ミスで一文字違ってました。私はいつものように修正しようとすると裁判官はカンカンです。「あのね、被疑者名という極めて重要な部分を間違えるなんてとんでもない話だ。修正は認めない。撤回しないなら却下にする。」とぴしゃりと言われてしまいました。「却下」というのは、令状請求について、重大なミスがあったり、被疑者が犯人性に疑問があった場合に、裁判官が請求を拒絶することです。この却下があると、裁判所から警視庁刑事部に通報があり、その警察署はその年の刑事部関係の表彰が受けられないという大きなマイナスになってしまうのです。
 私はもちろん撤回を選び、請求書類を返してもらって、パトカーで帰路に着きました。帰りの道中、課長に強く叱責された上に「撤回」となったことで、ショックは大きく、課長に進退伺書を提出しようかと真剣に考えました。帰署後、請求書を作り直し、よくよく間違いがないかを確認して、再度パトカーで裁判所に向かいました。到着したのは午前8時頃でした。既に裁判所の当直室は閉まっており、通常の受付窓口に行くように言われました。事務官に請求書類を渡すと、既に当直からの申し送りがあったようで、「こんなミスなら普通訂正でいいのにね、何で撤回にしたのでしょう。」と言ってくれました。今度はすぐに逮捕状が発付されたので、署に戻り、夫婦宅に行って妻を傷害罪で通常逮捕しました。この日の宿直は、この事件のために一睡もできず、送致準備のために夜遅くまで居残りとなり、そのまま署に泊まりました。2連泊です。出勤してきた課長に怒られましたが、辞めるほどではない雰囲気だったので進退伺を出すのは止めました。
 結局、妻は不起訴となり、自宅に戻りました。それからも110番は何度か入りましたが、刃物で切るようなことはもうありませんでした。1年ほどしてニュースを見て驚きました。他署の管内で、例の妻が覚せい剤らしきものを大量に飲まされて亡くなったのです。その家に住む金持ちの男はその後逮捕され、裁判で有罪になりました。どうやら、売春的な行為をしていたようです。これで110番は入らなくなり、宿直でこの夫婦に悩まされることは無くなったのですが・・・。
 半年ほどして、区役所の福祉事務所の職員が書類を持って来署しました。「告訴したいので相談を聞いてほしい」とのことだったので、私が担当しました。区内のある男性が多額の収入があるのに生活保護費を受領しており、不正受給による詐欺なので罰してほしいとの内容でした。書類を見せてもらって驚きました。被疑者は、例の夫婦の夫でした。やっと、110番から解放されたと思っていたのに、今度は詐欺の告訴事件です。生活保護費の不正受給詐欺は初めてだったので、生活保護制度の勉強から始めなくてはならず、処理に苦労しました。妻の次に、今度は夫も逮捕しなくてはなりません。なんで、二人とも担当が俺になるんだと偶然を恨みました。
 事件の概要は、夫婦二人で毎月約20万円の生活保護費を受給しながら、ほとんど毎月のように銀行口座に入金があり、約1年間で500万円くらいの未申告収入がありました。送金元は、夫の母親、ホスト時代に知り合った客でした。妻の売春によると思われる現金収入もありました。通常、生活保護費の不正受給詐欺は、役所に内緒で仕事をして、その月に給料の振込が予定されているのに、それを隠して生活保護費を受け取るという、刑法246条1項の詐欺罪です。ところが、この夫婦の場合、仕事は一切していませんので、口座に給与振込はありません。毎月月初に生活保護費を現金で受け取り、遊興費や酒代ですぐに使い果たし、無くなると母親やホスト時代の客にたかって、その都度10万円とか20万円とかの金額を振り込んでもらっていたというものでした。つまり、月初に保護費を受け取る段階では、その月に保護費以外の金が入ってくるかどうかは未確定なので、それを隠して受け取るという1項詐欺は成立しないことになります。そこで生活保護法の条文をよく読んだところ、受給者は収入があった場合には役所に申告する義務があり、申告があった場合、役所はその金額に見合う額を既に支給した保護費の中から返還を求めることができることがわかりました。そこで、被疑者は収入があって申告義務があったのに、その申告をせず、役所の保護費返還の請求を免れたという、不作為の欺罔行為による刑法246条2項詐欺で犯罪事実を組み立てました。
 不申告の収入額は多額であり、また夫婦二人ともに持病があって、その医療費も被害額に算入したため、その計算等に時間がかかり、事件をまとめるのに1年近くかかりました。検事相談に行って承諾をもらい、裁判所に夫の逮捕状と自宅の捜索差押許可状の請求をして難なく発付を受けました。自宅に行くと夫がいたので、室内のガサをして証拠品を何点か抑え、逮捕状を執行したのですが、困ったことにチワワを1匹飼っていました。もちろん警察署に連れていくことはできません。逮捕した以上、最低でも22日くらいは帰ってこられませんし、起訴されて実刑になれば帰宅できるのは数年後かもしれません。結局、ホスト時代の客の女性にチワワの世話を頼むことにしてこの門段は解決しました。
 夫の取調べは、私が担当しました。幸い、取調べには素直に応じ、自供ありの供述調書を作成して、無事起訴となりました。こうしてやっと私はこの夫婦から逃れることができました。しかし、まだ若い奥さんが殺されてしまったことは気の毒でした。夫は調べ中にも思い出して涙を流すことがありました。


淺利 大輔

あさり だいすけ

行政書士淺利法務事務所 代表

私は、警視庁警察官として32年間勤務し、そのうち25年間刑事(捜査員)をやってきました。さらにその中でも知能犯捜査関係部署(主として告訴・告発事件を捜査する部署です)の経験が一番長く、数々の告訴・告発事件に携わってきました。刑事部捜査第二課員当時は警視庁本庁舎(霞が関)1階にある聴訴室で、電話帳のように分厚い告訴状や告発状を持参して来られる弁護士先生方を毎日のように相手にし、ここで大いに鍛えられました。
これまでの経験を活かし、告訴事件の相談を受け告訴状をリーズナブルな料金で作成することで、犯罪被害者の方たちを支援できるのではと考えたからです。
「淺利に頼んで良かった」依頼人の方からそう思っていただける行政書士を目指していきます。

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